幼少の頃から元気モリモリだったようです

3600グラム超と割と大きめで生まれて病気をすることもなくスクスクと育ち、小さいころからとても活発でじっとしていることがないような子供だったようです。
3才頃から水泳を習い始め、小学生の時には少林寺拳法を習ったり、地域の少年団のソフトボールチームに所属したり、学校で一番足が早かったこともあり先生の薦めで学校の部活動で陸上の短距離を始めました。とにかく動くのが大好きで、小学生の休み時間は常にドッジボールに勤しんでいました。
院長プロフィール 幼少期
院長プロフィール 少林寺拳法
院長プロフィール 少年野球1
院長プロフィール 少年野球2

余談ですが、小学生の間ずっと習字も習っていましたが、筆とペンのどっちの字もすごい下手です(笑)。
大人になって「なんであの時、もっと上手くキレイな字が書けるようにちゃんとやっておかなかったんだろう…」と後悔しましたね。ほんと結婚式の時の記帳などには、恥ずかしい限りです。
でも、習字の時間を過ごしたこと自体で、ちょっとだけ集中力がついたのと結構長い時間正座ができるようになった気がします。
とにかく小さいころから体を動かすことが好きで、スポーツが得意な子供でした。

院長プロフィール 少年野球3
院長プロフィール 少年野球4
院長プロフィール 少年野球5

スポーツトレーナーに俺はなる!

高校卒業後、“スポーツ好き”、“体を動かすことが好き”というのが高じて、スポーツ&フィットネス学科というのがあった神戸YMCA学院専門学校(ヤングマンとちゃいますよ)に進学し、そこで初めて今の仕事にも重要な解剖学や生理学、トレーニング法やコーチングを学ぶ機会に恵まれました。
実際に体を動かす授業も多く、水泳にスカッシュ、エアロビクス(ちゃんとレオタード着てやってました…恥ずかしぃ~。笑)、長距離を走る授業にフリーウエイトでの筋トレの授業など、しんどくも楽しいカリキュラムがたくさんありました。

そしてこの学校の在学中に、当時色々な一流プロスポーツ選手のトレーニング指導をされていた著明なトレーナーの方のお話しを聞く機会がありました。その方のお仕事や活動の内容など様々な話を聞くことができ、「僕もトレーナーになりたい!」とある種憧れのようなものを抱きつつ、スポーツトレーナーを目指すきっかけになりました。

現実はそんなに甘くなかった…

専門学校で某一流トレーナーからのお話しを聞いたのが1回生の時でした。専門学校は二年制で、1回生の時から夏休みなどの長期休暇はフィットネスクラブやスポーツジム、スイミングスクールなどで企業研修として実際の現場での労働体験をさせていただいていました。
スイミングスクールでは子供たちに泳ぎを教えたり、フィットネスクラブではマシンの使い方やストレッチの指導、スタジオに入ってはエアロビクスの先生の助手としてメンバーの方たちの前で一緒にレッスンをしたりと、様々な貴重な体験をすることができました。

そうして研修に行かせていただくなかで、そこで働いていらっしゃる社員さんや外部から来られているトレーナーの方に仲良くしていただき、色んなお話しを聞くことができました。もちろん勉強になることがたくさんありましたが、たいていの話が「専門学校を出てすぐプロのトレーナーとしてやっていけるか」というと「到底無理だ」ということにつながるお話でした。というか、そういうことがわかってしまった企業研修でもありました。

今であれば、たかだか専門学校で2年勉強したくらい(通っていた専門学校をバカにしているわけではありません)ですぐにプロとしてトレーナー活動なんてできるわけないやん、とわかるんですが当時は高校を卒業して少ししか経っていない“18歳のクソガキ”だったので某一流トレーナーのお話を聞いた時は学校を「卒業したらすぐにトレーナーになるんや、いやなれるんや」と思っていました。ほんと、どんだけ世間知らずの勘違い野郎なんやって話ですよね(笑)。

ちょっと語学留学してみたりする

そんなこんなで、専門学校卒業までに大半の友達がスイミングスクールやフィットネスクラブへの就職が決まるなか、僕ははなから就職する気はありませんでした。
ただ、トレーナーになるという夢は諦めていなかったので、もちろんフィットネスクラブやスポーツジムに就職し社会人として色んな経験を積むという選択肢もあったと思いますが、そうはしなかった。

なぜなら、「トレーナーといえばやっぱりアメリカでしょ!」ということで…って、どういうことやねんって感じですよね?(笑)
当時、もちろん今もそうですが、スポーツ先進国といえばアメリカです。スポーツ先進国ということはスポーツ選手のサポート体制に於いても先進国ということになります。なので、最先端の知識や技術を学ぶ為にはアメリカに行くしかない!と考えたわけです。(考えることが単純というか単細胞というか、我ながらオモロイです)

アメリカに行くしかない、とは思ったものの、英語の「え」の字も知らない、ってことはないですが、中・高とろくにお勉強をしてこなかったので、なにせ語学力に乏しさと切なさを感じ、このまま行ってもアカンやろなぁと思い、まずは語学留学をしようと思い立ったのです。
専門学校卒業後、1年間アルバイトをしてお金を貯めてカナダはバンクーバー、そこのダウンタウンにある語学学校に入って英語の勉強に勤しみました。

カナダ留学1
カナダ留学2
カナダ留学3
カナダ留学4

アメリカ行きはいずこへ…

結論から言いますと結局アメリカに行くことはありませんでした。
カナダから帰国後、またすぐにお金を貯めて次こそはアメリカに行くぞと考えていましたが、お金を貯めようと働いている時にひょんな流れからサラリーマンになり結婚もして、と、その他にも色んな出来事があり、普段の生活を送るなかでいつの間にかトレーナーになるという夢がどこかへ消えてしまっていました。
そんな日常生活が数年続いたある日、俺の人生このままでええんかなぁ?とふと思い、「やっぱりトレーナーになりたい!」と再度考えるようになりました。かといって、ある程度年齢もいってしまったのもあるし、カナダで培った英語力もすっかり落ちてしまっていたので今更アメリカというのも無理があるなと思いました。そして、日本でトレーナーになる方法を模索し始めることになるわけです。

日本で活躍するトレーナーはどんな人?

トレーナーになる方法を模索し始めてわかったことは『日本で活躍されているトレーナーの方の多くは国家資格取得者』ということでした。その国家資格というのが柔道整復師や鍼灸師でした。

僕自身、そこで初めてそういった国家資格があるんだと知りました。
色々調べていくなかで、柔道整復師や鍼灸師になるためには専門学校に3年間通わなければなりません。そして卒業すれば資格が貰えるかというとそうではなくて、卒業後に行われる国家試験に受からなければ資格取得は出来ないのです。
当時の学生のほとんどは、整骨院(接骨院)で施術助手として働きながら学校に通い、資格取得を目指すというスタイルが多く、僕は結婚もしていましたし、のほほんと学生だけをすればよいという状況ではなかったので、働いてお給料をもらいながら学校にも行けるのであればと思い就職先を探しました。
と、こういった流れで今の職業に出会ったのです。

大変!でも充実した修行時代!

インターネットネットやらなんやらとあらゆるものを駆使して働かせてもらえる所を探していましたが、一つだけ重要視していた点がありました。それが“実際にトレーナーとしても活動されている先生のいらっしゃる整骨院(接骨院)”という点でした。
そうしてリサーチすること数日、プロスポーツ選手や様々なミュージシャンやアーティストのトレーナーをされている先生を見つけて雇っていただけるようにお願いしにいき、見事弟子として雇っていただけることになりました。

修行先の整骨院で働きだしたのが学校に入学する4,5ヶ月前だったと思いますがそれはもう最初からいっぱいいっぱいでしたが、さらに学校が始まればそれまで以上に大変でした。
当時、兄弟子が数名いましたが、なにせ新人ですから一番早く出勤して掃除やら諸々の午前診の準備をし、とても忙しいところだったので、休むことなくひたすら動き続け学校に間に合うギリギリの12時40分くらいまで働き、ソッコウで院を飛び出して(学校は昼間部で授業は13時から16時10分まで、職場から学校までは15分くらいで行ける所にありました)昼ごはんを食べる間もなく1時間目の授業を受け休憩時間に昼ごはんを食べるといった感じでした。

そして学校が終わればまたソッコウで院に戻って午後診療、終われば後片付けをしてそれで帰れるわけではありません。
毎日のように師匠や兄弟子に付き合っていただき、治療の練習をしたりまたある日はミーティングをしたりと午後診終了後にすぐ帰れる日なんてほとんどありませんでした。

それに付け加えて師匠がとても厳しい人だったので、僕の出来が悪いというのもありましたがいつも色んなことで怒られてばかりで心身共にほんとに大変な修行時代でした。それでも、学生生活の3年間もあっという間に過ぎ去り、とても充実した時間を過ごすことが出来ました。
仕事が大変過ぎて勉強が疎かになりがちで、僕自身ヒヤヒヤもんでしたが国家資格もなんとか無事に一発合格することができました。(何とかなるかなと思っていましたが直前になってめちゃくちゃ焦って必死のパッチで追い込みをかけました。笑)

貴重な体験

そしてなんといっても普通の整骨院では経験できないような院外での活動もさせていただきました。
前述した通り、師匠がトレーナーとしても活動されていたので様々な現場に帯同させていただく機会があり、そこでは普段の整骨院の業務では診ることのない症例だったり師匠の立ち回りや会話一つとっても、大変ためになることばかりでした。
あと、ほんとに個人的な意見を言うと、普通に生活していればまぁ会うことのない超有名な芸能人やスポーツ選手にたくさん会えたことがちょっと嬉しかったりもしました。(僕は決してミーハーではありませんよ。笑)
そういった貴重な体験も含め、修行時代の全てが今となって自分の治療家としての礎になっているのだと感じています。

いつしか治療家の道へ

当初の計画としては、柔道整復師の資格取得後は一線で活躍されているフィジカルトレーナーに師事するつもりでしたが、整骨院での業務や師匠とのトレーナー活動で、ケガを治したり身体の不調を取り除いたりということの素晴らしさややりがいを身を持って体感し、フィジカル(肉体を強くする)よりもメディカル(ケガからの回復)の重要性に気づき、いつの間にか治療家への道を選んでいる自分がいました。
要するに、脚や腕をケガしている人がガンガン筋トレできますか!?って話です。

今から思えば、「自分が体を動かすことが好きで筋トレが好き」っていうだけで、身体を作ったり強くしたりする方のトレーナーになりたいと漠然と思っていただけのような気がします。そして、いろいろな経験を重ねていくうちに、「そういったことが出来るのもまずはケガのない・ケガをしないしっかりとした丈夫な身体があってこそだ」ということを強く感じてきました。
そして、“より重要なのはフィジカル以前にメディカルなのではないか”と考えるようになりました。
誰しもにガンガン筋トレしてほしいわけではないですが、何をするにしても身体が資本じゃないですか!
簡単に言うとケガや不調のない身体で好きなことをやって人生謳歌してもらいたい。僕の思いはただそれだけです。
img_head01

ヤマシタ整骨院院長 山下暢士

(柔道整復師 山下暢士 監修)

インターネット予約はこちら
電話予約はこちら